風呂場は蚕への影響を考えて外にしたのかも知れません。 こちらも復元されてました。
桑貯蔵庫跡
温度や湿度の管理目的だと思いますが、地下室を作って保管していたようです。
西屋敷跡
今はなにもありませんが、分教場時代はこの辺りに西の屋敷があったそうです。 分教場時代には倉庫や寄宿舎などもっと多くの建物があったそうです。
高山社は昭和2年に学校としての役目を終えています。
この方が高山社の創始者である高山長五郎さん。
製糸場だけあっても生糸は生産できないので、この方が果たした役割は大きかったと思います。
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