北海道 松前藩屋敷〜白神岬
2019-08-22


蝦夷地と本土との交易を独占する事により松前藩は大きな利益を得ます。
松前城の城下町も幕末期には人口 6,000 人ほどの最北の都市へと発展していました。
しかし、函館戦争では城下の2/3を焼失してしまい、その後の火災などで当時の街並みはほとんど残っていません。
松前藩屋敷は江戸時代の街並みを再現したテーマパークで、 1991年に開館した施設です。
松前城のすぐ近くなので立ち寄ってみました。

平日、午後2:30の訪問だったので、観光客はほとんどいません。
混雑を避けて意図的にお盆休みをずらした訳ですから当然なのかも知れませんが、やはり、ちょっと寂しさを感じてしまいます....。 その代わり、展示物はじっくり見る事ができます。
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沖の口奉行所
蝦夷地に出入りする船の積荷や人を検査し、税金を徴収する場所でした。
刀傷などがある入国者や身元がはっきりしない人は入国を許さず、本土へ送り返していたようです。
ただ、実際に荷物改めを行っていたのは問屋や小宿だったらしく、役人はそれを監視していただけだったようです。 役人は美味しい所だけを持って行ってたようですね...。
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商家
松前の商家は近江や北陸出身の商人が多かったようです。 ここは近江屋。
交易品の多くは北前船(弁財船)で行われ、日本海側との交易が盛んだったのが関係しているのかも知れません。
交易が盛んになると仕組が複雑になり武士の手には負えなくなります。 「場所請負人」として交易を代行した商人の中には莫大な利益を得る物が現れます。
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豪商、栖原小右衛門が使用していた分銅です。
幕末〜明治20年頃まで使用されていたようです。
栖原小右衛門は小学校の設立資金や、浪止場の建設費用などを寄付した人物です。
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旅籠屋
時代劇に良く出てくる「越後屋」の屋号です。
今で言う旅館ですが、江戸時代に旅行で蝦夷地まで来るとは想像しにくいので、利用者は交易関係の人が中心でしょうか?
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髪結
「髪結」は今で言う床屋で、専門の職人が担当しました。
男性は男性、女性は女性の職人が担当し、店には待合室があり、将棋などを指して順番を待っていたようです。 こういった日常は今とあまり変わらない感じがします。
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