新潟県 鮫ヶ尾城跡
2022-08-12


鮫ヶ尾城の築城年代は不明ですが、天正年間(1573 〜 1592年)に上杉氏によって春日山城の防御施設として整備されたと考えられています。
1578年、上杉謙信が後継者を決めずに亡くなると、景虎と景勝による家督争いから「御館の乱」が発生します。 景虎は劣勢になると鮫ヶ尾城に籠りますが、耐えられずに落城して景虎は自害します。
歴史的に有名な事件の舞台になった城ですが、その後の話がほとんど無いので鮫ヶ尾城はそのまま朽ち果てたのかも知れません。

鮫ヶ尾城の麓は斐太遺跡でもあり、斐太遺跡・矢代山B地区から山道を登り、鮫ヶ尾城の散策を開始します。 尾根を登ると、この方面の尾根が堀切で分断されている事が分ります。
また、この付近に「東二之丸跡」と呼ばれる場所がありますが入れないようでした。
また、その北東側にも曲輪群のような場所がありますが、城の遺構では無く弥生時代の丘陵墓だったようです。
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東一之丸
堀切の先に見えるのが東一之丸です。 鮫ヶ尾城の東側を守る重要な曲輪だと思われます。
この曲輪からは弥生時代の墳丘墓も見つかっており、築城前から何等かの加工がされていたのを城に活用したのかも知れません。
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見晴らしが非常に良いです。
ここから攻めてくる景勝の軍勢をどんな思いで見ていたのでしょうか...。
御館の乱は北条氏をバックに持つ景虎の方が優勢だったようです。 ただ、北条氏の要請で調停に来た武田勝頼が景勝と和睦した事に事態が悪化します。 この行為により武田氏と北条氏の同盟関係が破綻してしまい、その後の勝頼の運命にも大きく影響したと思います。
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東一之丸を先に進むと堀切6が見えてきました。
ここから先が鮫ヶ尾城の中心部になります。
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二之丸の下段付近。
鮫ヶ尾城は三之丸、二之丸、本丸が横一列に並んでおり、この辺りがその分岐点になります。
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三之丸に行く途中にあった井戸跡です。
場所的にも重要な井戸だったと思います。
しかし、こういう山の中に井戸がぽっかりと口を開けているのは怖いですね...。
柵があるから良いですが、気付かずに一人で落ちたら大変な事になります...。
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三之丸

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