埼玉県 旧渋沢邸「中の家」
2025-02-09


埼玉県深谷市血洗島の旧渋沢邸「中の家」は渋沢家の住宅などに使用されていた建物で、渋沢栄一も 23歳までここで生活していました。
栄一の父、市郎右衛門は藍玉(藍の葉を発行させて作られた染料)の製造販売で財を築いた人物で、この地域の有力者でした。 栄一が東京に移り家を出た為、栄一の妹貞の婿だった市郎が「中の家」を継ぎます。
渋沢家は農家と言っても「苗字帯刀」がゆるされるほど裕福だったので、一般的な農家とは別物と言えます。 現在「中の家」は一般公開されています。

駐車場
大型バスでも停められるくらい大きな駐車場です。
朝 9:40頃の到着でしたが、既に数人の見学者が訪れており、その後も見学者が途切れる事はありませんでした。 旧渋沢邸「中の家」は広く知られている史跡のようです。
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正門
武家屋敷と思えるほど立派な正門です。
渋沢栄一は農家の出身で、幼い頃は藍玉の販売や材料の仕入れなどの家業を手伝っていました。 14歳の頃は単身で藍葉の仕入れを行っていたようなので、商才はその頃からあったのかも知れません。 後に剣術修行の為に江戸に出て、尊皇攘夷の思想に目覚ます。 横浜外国人居留地を焼討ちにする計画を立てますが周囲の説得により思いとどまります。
渋沢栄一に対してどことなく温厚な印象がありますが、若い頃は血気盛んだったようです。
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渋沢栄一像
正門を通った先にあった若き日の渋沢栄一像です。
渋沢栄一は、晩年の頃や、洋装の写真が多いので、このようにちょんまげ姿の若い頃の像は珍しいかも知れません。
栄一は横浜外国人居留地の焼討ち未遂の後、京都に出ますが尊皇攘夷の活動に行き詰まります。 そこで一橋慶喜に仕える事となり、1866年には幕臣になります。 全く逆の立場になった訳で、この変わり身の早さが栄一の面白い所です。 栄一は、幕府の命でヨーロッパ滞在中に幕末を迎えます。
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副屋
正門の隣にある建物で、これだけでも立派な建物です。
建てられたのは 1911年です。
普通の建物とは異なり塀の外に面している建物で「お店」として使用されていたようです。
「八基村農業協同組合」が設立した時には事務所として使用されました。
間取りは土間と4部屋の和室になります。
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主屋
主屋は 1892年の火災で焼失しており、現在の建物は 1895年に再建された物です。 1985年からは「学校法人青淵塾渋沢国際学園」の施設として使用され、外国人留学生の学びの場となり、2000年に学校法人が解散すると深谷市に帰属します。

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