栃木県 足尾銅山跡
2017-07-16


1610年に2人の農民によって偶然発見された足尾銅山は江戸幕府直轄の銅山として栄えました。 しかし明治時代初期の頃には採掘量が減少しており、閉山に近い状態になりました。
1877年に古河市兵衛による経営が始まると、技術革新による新たな鉱脈の発見、生産性の向上により日本の半分近くの生産量にまで採掘量が拡大します。
しかし、深刻な公害問題を引き起こし、1911年には足尾暴動事件まで発生します。
その後、1973年に採鉱が停止され、鉱山は廃坑になります。

現在、鉱山跡は資料館として公開されており、坑内の一部を見学する事ができます。
鉱山の見学はトロッコ列車に乗って開始します。
昔は大勢の坑夫がトロッコに乗って作業場に向かったのですが、現在は観光客を乗せて進みます。 トロッコの走行距離は思ったよりも短かかったですが、安全面からもそんなに奥まで連れて行く事も出来ないので仕方が無いと言った所でしょうか...。
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ここがトロッコ列車の終点。 思ったよりも湿度が高く、気温もかなり低いです。
この辺りは鉱山の入り口をちょっと入った所で、レールは 6.5km先まで続きます。 そこから上下に何層にもなって掘り進みます。
ちなみに、この鉱山の坑道をすべて繋ぐと長さは 1,200km にもなり、東京〜博多間の距離に匹敵します。 まるで迷路のような坑道ですが、よく迷子にならない物です...。
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坑道跡を利用して時代毎の採掘風景が展示されています。 まずは江戸時代。
この頃は機械など無いので槌とタガネによる手掘りです。 また、坑道内は真っ暗闇だったはずで灯りの確保も大変だったと思います。
当然、採掘した鉱石も人力で背負って運びます。 足尾銅山で採掘された銅は当時の貨幣である「寛永通宝」に使用されます。 足尾銅山で作られた「寛永通宝」の裏には「足」の字が刻印されているので見分ける事が出来ます。
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次のゾーンへ坑道を進みます。
採掘作業をしている訳では無いので、涼しくて意外と過ごしやすいです...。
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明治時代に入ると機械化が進みます。
採掘方法は手掘りから削岩機による機械堀りになります。 輸送方法も進化しました。 桐生〜足尾間の鉄道が開通し、馬車から鉄道へと変化します。
しかし、採掘量が増えた事により、公害問題が深刻化するのもこの頃からです。
マネキンの服がボロボロなのですが、これも当時の再現なのでしょうか? 江戸時代のマネキンの方はちゃんとした着物を着てたのに...。
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