鳥取県鳥取市にある日本100名城の一つです。
天文年間(1532 〜 1555年)に築城されたのが始まりのようですが、誰が築城したのかに関しては意見が分かれているようです。 現在は但馬山名氏の説が有力なようです。
鳥取城を有名にしたエピソードの一つが豊臣秀吉による兵糧攻めで、「鳥取の渇殺(とっとりのかつえごろし)」と呼ばれている凄惨な物でした。
何しろ味方が鉄砲に撃たれると、息がある内にバラバラに解体されて仲間内に食べられると言うホラーな世界が繰り広げられていたそうです。
100名城のスタンプを押した仁風閣から鳥取城の散策を開始します。
仁風閣の庭に鳥取城への入り口があったのでそこから登ります。
二の丸への途中の石垣に、「お左近」の手水鉢なる石が石垣に使われていました。
鳥取城の現在の姿は池田長吉の代に行われた築城跡になりますが、大変な難工事だったようです。 そこで、息子長幸の妻の侍女、「お左近」の手水鉢を石垣に使った所、無事に工事を終える事ができたそうです。 多分、あの穴の開いた石がその手水鉢かと思います。
二の丸の入り口に到着。
右側の高い石垣の上に御三階櫓が建っていたようです。 また、階段の所には裏門があったようですが、簡素な物だったようです。 裏門は江戸末期には渡櫓門に改修されたようですが、その後幕末を迎える事になるので、櫓門だった期間は比較的短かったと思います。
ここまで綺麗な石垣が続きますが、昭和18年の鳥取地震では石垣が崩れるなどのかなりの被害があったようです。
二の丸
江戸時代初期には藩主の住居となる御殿がありましたが、後に御殿は三の丸にうつされます。 二の丸は1720年の火災で建物は全焼します。 御三階櫓と走櫓以外は再建されず、1844年まで放置されていたようです。
御三階櫓跡
ここに御三階櫓が建てられたのは池田光政が改築した頃だとされています。 櫓は 1720年の火災で焼失しますが、1728年に石垣の修理と共に再建されました。 櫓は明治12年に解体されるまで現存してました。 その姿は古い写真にも残されています。
菱櫓跡
ここには床面が菱型をした2階2層の櫓が建っていたようです。
1720年の火災による焼失後は再建されずにいましたが、最後の藩主、池田慶徳の時に再建されたようです。 鳥取城は江戸末期に意外と城の再建事業を行ってますね...。
石垣を見ると野面積に見えるので、鳥取城の石垣としては古い年代なのかも知れません。
鉄御門(表御門)
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