東京都 国分寺跡周辺(1)
2020-08-09


鳥居を見ても「神仏習合か?」程度に思ってました。 でも、建物をよく見ると神社の作りですね...。
案内も無く、国分寺跡とは、あまり関係の無さそうな神社のようです。
鳥居を出ると「国分寺薬師堂」の道案内がありました。 どうやら薬師堂はすぐ隣のようです。 まぎわらしい...。
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国分寺・仁王門
宝暦年間(1751 〜 1763年)に建立された、八本柱の門です。
1335年に国分寺金堂跡付近に 建立された旧薬師堂の資材がこの門に使用されているようです。
両脇にある格子状の中には寺を守る仁王像が安置されています。 仁王像の作者は不明ですが、門よりも古い、享保3年(1718年)に造られました。
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仁王門の近くにあった石仏。
阿修羅像でしょうか? 腕が6本あります。
この辺りに来ると、急に雰囲気が変わりますね...。 この先にある薬師堂へと進みます。
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国分寺・薬師堂
安置されている、木造薬師如来坐像は平安時代末期〜鎌倉時代初期に造られたと考えられている古い仏像です。 薬師堂は、1335年に新田義貞によって金堂跡付近に建立されました。 武蔵の国分寺は 1333年の分倍河原の合戦で焼失したと伝わるので、国分寺の終焉には新田義貞も無関係では無かったのかと思います。 薬師堂の寄進は罪悪感からでしょうか?
現在の建物は 宝暦年間(1751 〜 1763年)に再建された物です。
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薬師堂の裏には石仏が並びます。
いい場所ですね。 気に入りました。
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国分寺・楼門
明治28年(1895年)に東久留米市の米津寺から移築された楼門です。
米津寺は三河から移住した徳川家臣だった米津氏の菩提寺として創建されました。 しかし、米津寺は明治時代に火災によりほとんどの建物を焼失してしまい、焼失を逃れた楼門がここに移築されました。
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国分寺・本堂
楼門の先にあるのが国分寺の本堂です。
国分寺は分倍河原の合戦で焼失しましたが、本堂は 1725年に再建されました。
現在の本堂は 1985年に再建された物です。

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