コロナの影響で県外に移動できないので都内の史跡を散策する事にします。
741年、聖武天皇の命により全国各地に国分寺が建立されました。 東京にも国分寺跡は存在するのですが、あまり意識する事はありませんでした。 きっかけは飛騨国分寺の仏像を拝観した時に、お寺の人と国分寺が東京にもあった事を話した事でした。
今回は2回目、8年ぶりの国分寺跡散策になります。
古代官道 東山道武蔵路
大化の改新(645年)の後、天皇を中心とした中央集権体制が進みます。 その際、東海・東山・北陸・南海・山陽・山陰・西海の七道が整備されます。
写真は東京都立多摩図書館前の道路の対岸にある歩道で、東山道武蔵路の一部だった場所です。
車道並みの広さがある歩道で、道路の両側に薄っすらと黄色いラインが引かれています。 このラインは側溝があった場所を示しています。 東山道武蔵路は幅 12m もある立派な直線道路でした。
このアスファルトの下に、昔の幹線道路が眠っています。
市立歴史公園(東山武蔵路)
東山道武蔵路は住宅街の中に消えていきますが、その一部は公園として保存されています。
ここは、介護老人施設と薬局の間にある市立歴史公園で、東山道武蔵路の構造を知る事ができます。 どうやら側溝は異なる年代で2つ存在していたようです。 第1期の側溝は、第2期に埋没、その西側に第3期の側溝が作られたようです。 道路が少し西にずれたようですね...。
道路の脇にあった特殊遺構跡。
第3期の側溝が埋まった後に作られたようで、「久」と墨書された須恵器の坏(つき)が出土しています。 また、2つの坏の口を合わせるような状態でした。 道路から災いが侵入する事を防ぐ為に、呪術的な目的で埋められたとも考えられています。 謎の多い遺構です。
先ほどの特殊遺構のあった場所から道路の反対側には竪穴住居がありました。
第1期の側溝が埋まった後の建物のようで、9世紀後半の遺物も出土しているようです。
東山道武蔵路の周辺からは、多くの竪穴住居跡が見つかっています。
当時も、幹線道路の周辺には人が集まりやすかったのかも知れません。
土師竪穴住居跡
国分寺公園の敷地内にある遺構です。
薬師堂西側を発掘調査した際、四棟の竪穴住居跡が見つかりました。 ここはその中の一つです。
竈の跡や土器なども見つかっています。 遺構の名称に使用されている「土師」とは、当時の一般的な土器だった「土師器」の事です。
元町八幡神社
土師竪穴住居跡のすぐ隣にある神社で、最初はここが国分寺薬師堂かと思ってました。
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