1590年、小田原征伐後に徳川家康は関東へ移封する事となり、この地の領主だった諏訪頼忠も武蔵国へ転封となります。 代わりに、豊臣家臣であった日根野高吉が領主となり、1592年に高島城の築城を開始します。
当時は高島城の近くまで諏訪湖畔が迫っており、「諏訪の浮城」と呼ばれていたようです。
関ヶ原の戦いの後、徳川氏に付いた諏訪氏は功績を認められ、1601年に旧領に復帰します。 以降、明治維新まで諏訪氏が領主となります。
廃藩置県後の 1875年には天守は撤去され、翌年からは公園として利用されます。
天守付近にも高島城専用の駐車場があったようですが、訪問当日は存在に気が付かづ、バイクは諏訪市役所の手前にある観光駐車場の普通車スペースに停めました。
到着したのは 日曜日の 9:30 頃でしたがガラガラでした。
水堀(内堀)
東側の内堀は当時の状態に近い感じで現存しているみたいです。
駐車場からの歩道橋から水堀の様子が良く見えます。
西側は普通の道路になってます。 当時は諏訪湖が城の近くまで迫っていたようなので、西側は湖だったので堀は無かったのかも知れません。
富士見櫓跡
歩道橋を渡って左側に進んだ先に富士見櫓跡があります。
本丸の南東側を守る櫓だったと思いますが、石垣や礎石などの後は残って無いようです。
古い絵図をみると2層の櫓だったようで、広さから見てもそれほど大きくは無かったと思います。
富士見櫓と土戸門の間は多門櫓でつながっていたようです。
ここから奥の方に多門櫓が連なっていたのだと思います。
土戸門跡
土戸門は勝手口だったようです。
荷物や商人、職人、また、位の低い役人などはこの門から出入りしていたようです。
枡形だったのか、当時のイメージがつきにくかったです。
諏訪護国神社
本丸南東側には護国神社が鎮座していました。 公園化した城跡に護国神社を建立するケースは他でも良く見かけす。 ただ、この護国神社は諏訪大社との関係があるのでしょうか? 両側に御柱が立っています。 社殿も諏訪大社と幣拝殿に似ています。
本丸御殿の見取り図を見ると、この辺りは「氷餅部屋」があった場所のようです。 氷餅は餅を凍らせたまま乾燥させた菓子で、将軍家にも献上されていたようです。
川渡門
現在の門は三之丸御殿の裏門を移築した物なので、当時の川渡門では無さそうです。
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