富山県 高岡城
2017-05-03


加賀藩主・前田利長は隠居した後、富山城を居城としてました。 1609年、城下町の火災による類焼で富山城が焼失した為、高岡城を築城する事になりました。
6年後の 1615年には一国一城令により廃城となりますが、廃城後も蔵などが置かれ、城としての機能は実質的に残されていたようです。
明治に入ると城跡は民間に払下げられますが、服部嘉十郎らの公園指定の請願書や保存運動により高岡古城公園として残される事になりました。

まずは100名城のスタンプが置かれている博物館に向かいましたが、小さな駐車場なので停める停める事ができず、城の反対側にある大きな北口駐車場にバイクを停めます。

小竹藪
江戸後期に作られた「高岡城之図」と照らし合わせると、この辺りは「御城外」と書かれており、防御施設だったのかは不明です。 周辺は沼田で囲まれていたようです。
禺画像]

三之丸濠
現在は三之丸には市民体育館が建てられており、当時を偲ばせる物は少ないのですが、周辺を囲む濠は、江戸時代の地図とも形が一致する事から当時の物だと思われます。
草木が生い茂っているので、石垣があるのかなどは不明です...。
禺画像]

民部の井戸
三之丸にある当時の遺構の一つです。
高岡城には飲料用の井戸が数カ所掘られていたようで、ここはその一つです。
なかなか渋い建屋ですが、これは保存用に後から建てられて物かと思います。
禺画像]

禺画像]

朝陽橋
小竹藪と本丸を繋ぐ場所にある朝陽橋です。 橋は明治11年に建てられたとの事です。
防御的に考えると築城当時にこのような橋があったとは思えませんが、江戸後期の地図を見ると、橋は書かれて無いものの、不自然に突き出した場所があります。 何だろう?
禺画像]

禺画像]

西内濠
この城は、城の規模に対して濠の規模がかなり大きいいです。 内堀に関しては、観光用の船が通るほどの大きさがあります。
富山城が焼失したのは3月、未完成とはいえ9月には入城している事から利長は、かなりの突貫工事で築城したと思われます。 重機も無い時代に、この規模の濠を半年程度で完成させたのであれば脅威的ですね...。
禺画像]

枡形濠
西内濠の反対側にある枡形濠です。 ここは鍛冶丸と明丸の間の通路を狭くする為に濠が桝形に掘られており、対岸までの距離が非常に長いです。
禺画像]

続きを読む

[富山県]
[旅行]
[日本100名城]

コメント(全0件)
コメントをする


記事を書く
powered by ASAHIネット